連載第7回目は、任意団体NAUI JAPANの理事として、その法人化を担当、
現在の株式会社ナウイエンタープライズのグランドビジョンを企画、自ら役員として、設立当初の経営に携わった、刈間 昌仁氏(#6458)です。
1985年、法人化を担当する、NAUI JAPAN理事であった私は、NAUI JAPAN事務局長の吉村氏に声をかけられ、事務局にスタッフとして加わる。NAUI JAPAN(日本安全潜水教育協会)は、設立以来任意団体として活動しており、公益法人化は悲願となっていた。現在のようにNPO(Non profit organization)という仕組みを持たなかった日本では、法人格を取得するとすれば、営利法人か公益法人しかなかったのである。文部省管轄、または、科学技術庁管轄下の社団法人を目指していたが、当時の組織力や組織基盤では、認可を受けることは容易ではなかった。一方、US NAUIからは、日本国内における「NAUI」商標・サービスマークの権利確立を迫られていた。NAUI JAPANが法人格を取得して登録することが望ましく、出来ないならばUS NAUIが日本で登録を行うとの申し出を受けていたのだ。理事会でもNAUI JAPANの独立性にかかわる問題という指摘もあり、早急な対応を求められていた。
この問題は1988年、当時のNAUI JAPAN理事7名が発起人となって株式会社ナウイジャパンを設立し、設立と同時に全株式を任意団体に額面で譲渡し、事実上の子会社として営利法人を所有するという形で法人格を取得し、解決を図る。
NAUI JAPAN事務局はもう一方で、組織運営上の問題を抱えつつあった。1980年代半ば、事務局は経営上空前の規模拡大を経験する。1970年の創立から、Cカードの発行枚数は徐々に増えてはいたものの年間3,000枚程度であったのが、3,000→4,000→7,000→10,000→14,000と4年間で4倍以上に飛躍的に伸びたのである。1987年にはリゾート法の施行もあり、バブル経済を背景とするレジャー/リゾートブームが到来するのだ当時の「レジャー白書」(財団法人余暇開発センター刊)によれば、いろいろなレジャーの中で、実施率と実施希望率の乖離はダイビングが最も大きく、今後成長が期待できる分野としてレポートされていた。
市場のニーズにこたえられる組織に変革していく必要があったのだ。それまでITCは年に1回伊豆海洋公園で行われているのみで、「受けたい者だけが来ればよい」という姿勢であったが、理事会に説得を試み、当時理事の1人であった村田幸雄氏の賛同・支援を受けて、初めて営業に出かけた。沖縄を皮切りに日本中を歩き回り、ITC受講者を集め、または他団体からのクロスオーバーを勧めて、地域ごとにITC・ICCを設定・開催していった。
そんな中、黒字決算の翌年、総会で次年度の赤字予算を決定される。非営利である以上、儲かってしまったら会員に還元すべきという意見であった。事務局としては、考え方は当然で受け入れられるが、規模が拡大している時期で夏前に資金が逼迫すること、またマニュアルの改訂という資金需要も抱えていると、資金繰り表を提示して、利益をプールさせてほしいと訴えたのだが、届かなかった。翌年、当然のごとく資金ショートを起こし、吉村氏と銀行を駆け回ることになる。すでに経営がわからない素人で経営できる規模ではなくなっていたのである。
組織というものは時代の中でつねに変革を迫られる。だが変わってはいけないものもある。それがミッションステートメントとして示される、組織の事業理念であろう。規模拡大の一方で、忘れてはならないものがある。NAUIの場合、「Safety Through Education」であり、「Quality Difference」であり、最終認定基準「最愛の人を任せられるか」(この基準は第1期の松岡俊輔氏が提唱したものと聞いたことがあるが、事実だろうか?)であろう。変わるべきことと変わってはいけないもの。当時はよく学校経営にたとえられた。教育の理想や理念と経営はときとして対峙するが、質の高い教育を提供するからこそブランド力を維持し生徒を集められる。しかし理想に走れば経営は成り立たない。どう舵取りをしていくのか継続的な仕組みを作る必要性を感じていた。
その解として提示したのが理念の追求を目指す組織と、維持発展させていくための事業活動を行う組織(会社)に役割分担し、相互発展していく体制だった。公益法人が開発蓄積させたノウハウなどの資源を、傘下の事業法人が事業化し、その利益の一部が公益法人の研究・事業活動に還元され、新たな事業資源の開発につながるという事業モデルだ。そして、事業パートナーを求める模索を始めた。大規模な会員組織化のプロとして日本信販と交渉を開始し、デベロッパーとしてJR東日本スポーツ、キャリアとして日航商事の参加が決まり、株式会社ナウイエンタープライズの設立に至る。構想5年、NAUIの総会も3度の審議を経てようやく設立するのだが、直近の理事会では否決され、総会での審議の結果僅差で承認を得、設立にたどり着いた。新会社に出資会社から迎えた岩本茂男現社長の手腕や、スタッフの努力の結果、設立後3年目で無事単年度黒字転換し、翌年には累積でも黒字転換するめどが立ったことから、職を辞し、一インストラクターに戻る。思えば法人化担当理事の命を受けてから、あしかけ10年の歳月が過ぎていた。この間、日本経済は戦後最高のバブル景気とその崩壊を経験し、NAUI JAPANにとっても激動の時代となった。その評価は分かれるところかもしれないが、現在に至るその後20年の礎にはなったと自負している。
設立50年、5年ひと昔の現代において、50年の長きにわたり組織を発展させることは容易なことではない。社会の要請にこたえる企業努力と会員個々のたゆまぬ努力の結果だと思う。現在NAUIの運営を担っていただいている全ての方に、改めて感謝の意を表したい。
そして節目の年だからこそ、今後50年のビジョン(新たなミッションステートメント)を示してほしい。海と人とをつなぐ最前線で活動するNAUIとそのメンバーには、「Safety Through Education」だけではない、今後50年で社会に求められている使命と役割があるように思う。1998年国際海洋年をきっかけに、海と人との関わり方や、見方、考え方は、特にここ10年で大きく変わってきた。1963年第1次国連海洋法会議開催。1973年第3次国連海洋法会議開催。まさにNAUI創業時に巻き起こった、国連海洋法会議に端を発した国際的な海洋開発ブームのときとは明らかに違うアプローチを求められている。今後50年の大計のヒントがそこにはあると思う。
#6458 刈間 昌仁